Close
  • 最新情報
  • 本プロジェクトの課題
  • 道筋・手法
  • 成果目標
  • メンバー紹介
  • お問い合わせ
  • YouTube

展覧会

ヤングムスリムの窓

撮られているのは、たしかにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?

「ヤングムスリムの窓」とは?

プロジェクト「ヤングムスリムの窓」では、ダイバーシティや多文化共生を背景に、日本に暮らすヤングムスリムたちの視点=窓を通じて日本社会はどのように映るのかを明らかにしていきます。ここでのヤングムスリムには、イスラーム圏出身の親を持ち日本で生まれ育った2世やイスラーム教徒に改宗した日本人など、様々なプロフィールの若者たちがいます。彼らは宗教を実践しながら、日本で自らを取り巻く人々や社会とどのような関係性を築いているのでしょうか。

このプロジェクトの特徴は、映像メディアを表現手段としてのみならず、一種のハブとして活用し、立場や専門、世代や文化的背景の異なるアクター(ヤングムスリム、映像作家、研究者など)が相互に関わりながら研究/共創を行っているところです。今回の展覧会「ヤングムスリムの窓:撮られているのは、確かにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?」では、学際的なプロジェクトを進める過程における映像の活用方法の可能性を示すとともに、各アクターがそれぞれの関心にもとづいて制作した映像作品を展示します。

展覧会の概要

会期:2023年2月19日(日)〜3月4日(土) 12:00-19:00
会場:京都精華大学サテライトスペースDemachi
   〒606-8205 京都市左京区田中上柳町25-3 京阪出町柳ビル2F
入場料:無料
参加者:ヤングムスリム(アフメド・アリアン、エルトゥルール・ユヌス、長谷川 護)
    澤崎 賢一(アーティスト・映像作家/一般社団法人リビング・モンタージュ 代表理事)
    阿毛 香絵(文化人類学者/京都精華大学 特任講師)
    新明 就太(映像作家/東京藝術大学 非常勤講師)
    野中 葉(宗教・社会学者/慶應義塾大学 准教授)
企画:澤崎 賢一、阿毛 香絵
主催:一般社団法人リビング・モンタージュ
共催:ヤングムスリムの窓:芸術と学問のクロスワーク
   京都精華大学 阿毛香絵 研究室
   慶應義塾大学 野中葉 研究室
   京都精華大学アフリカ・アジア現代文化研究センター
   京都精華大学・萌芽的研究助成「アジア・アフリカ比較共同研究「現代社会の生活空間における宗教性」」
助成:京都市「Arts Aid KYOTO」補助事業、公益財団法人 花王芸術・科学財団

撮られているのは、たしかにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?

澤崎 賢一

アーティスト/映像作家
一般社団法人リビング・モンタージュ代表理事

いきなり大きく脱線して恐縮だが、「粗忽長屋(そこつながや)」という古典落語がある。粗忽者=軽はずみでそそっかしい者が登場する落語である。イスラム教徒が登場する展覧会で、何でいきなり落語の話をし始めるのだとお怒りの方もいるかもしれない。書き始めている今のところは、あとでどうにかオチはつけたいとは思っているので、しばし我慢してお付き合いいただけるとありがたい。まずは、ざっくりと「粗忽長屋」の内容を説明しよう。

八五郎は、浅草の観音様近くの行き倒れの死骸を、弟分の熊五郎だと思い込み、急いで引き取りにいくよう「当人」(熊五郎)に知らせにいく。八五郎は「浅草の観音様の近くで、おまえが行き倒れになっているから、はやく死骸を引き取ってこい」と言うが、熊五郎は「死んだ気がしない」と答える。しかし、「誰かほかのやつに持っていかれちまうぞ」と説得され、「当人」として現場におもむく。死骸を見ると、自分より少し顔が長い気がするものの、わが身と納得し、涙ながらに抱きあげる。その瞬間、ふと我に返り、「抱かれているのは、たしかにおれだが、抱いているおれはいったい誰だろう?」と熊五郎はこぼす。

お察しのように、このオチ、「抱かれているのは、たしかにおれだが、抱いているおれはいったい誰だろう?」は、今回の展覧会名「撮られているのは、たしかにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?」に引っ掛けてある。だから何だ?と糾弾するのは、もうしばしお待ちいただきたい。

立川談志は、この「粗忽長屋」のことを「主観長屋」と呼んでいたことがある。どういうことか。談志は「粗忽長屋」に登場する八五郎と熊五郎はたんなるそそっかしい者ではなく、「思い込みの激しい」性格の持ち主だと言っているのである。「思い込んだら命懸け」で、八五郎と熊五郎は話し相手を説得しにかかる。あるときから、談志は「粗忽長屋」ではなく「主観長屋」という題でこの噺を高座にかけるようになった。

さて、ようやく「ヤングムスリムの窓」の話である。このプロジェクトに参加しているヤングムスリムとは、日本に生まれ育ったイスラム教徒2世や途中で改宗した日本人の若者のことを指す。それから、主要なメンバーである文化人類学者の阿毛香絵さんはセネガルの若者たちとイスラム神秘主義を調査していたし、同じくメンバーのインドネシアで地域研究を行う野中葉さんはムスリムファッションについて研究してきた。このように、この企画の関係者の多くは、イスラム教について造詣が深い。

けれども、この展覧会をご覧になっているあなたは、イスラム教のことをどの程度ご存知だろうか。芸術作品の体を成す今回の展覧会の来場者の中には、一定数以上、イスラム教とは無縁の方々がきっといるに違いない。なにを隠そう、このテキストを書いている僕自身、「ヤングムスリムの窓」に関わるまで、日本の暮らしの中でイスラム教に触れる機会はほとんどなかった。

 繰り返すが、展覧会に参加しているヤングムスリムたちはイスラム教徒なんだけど、日本の文化の中で生まれ育ってきた。つい最近、日本に暮らす「イスラム教徒の墓が足りない」というニュースがあった。イスラム教では火葬が禁止されており必ず土葬でなければならないが、土葬の墓地が足りないのである。これに対して、「本土に埋めろ」なんていう心ない言葉が投げつけられているのをツイッターで見かけたが、彼らヤングムスリムにとっては、その「本土」が日本なのである。

このように、ひと時代前の日本の常識や倫理観では計りかねる、その多様な生き方が彼らヤングムスリムたちの特徴だからこそ、この展覧会では、イスラム教徒が同じイスラム教徒に向けて何かを語りかけるだけではなく、これまでイスラム教と無縁だった僕のような日本に暮らす人間にとっても、何かしら意味のあるものにしなくちゃいけない。ということが、展覧会を企画するにあたって僕の頭の中に強くあった。でもどうやって?

イスラム教徒にとって、アッラーは唯一無二、永遠の絶対者である。このイスラム教徒にとっての真実を、イスラム教徒以外の人たちと共有することは、きっととても難しいだろう。そもそも絶対的な存在ってなに?僕自身よく分からない。このようにイスラム教徒にとって自明なことが、その外側にいる他者にとってはそうではないと感じさせるケースは、おそらく他にもたくさんあるだろう。ヤングムスリムたちの活動を介して日本社会に暮らすムスリムたちの実情を明らかにすることに加えて、そういった他者同士の出会いの場を演出しようというのが、今回の展覧会の趣旨でもある。

だから今回、僕はイスラム教とまったく無縁の日本人の鑑賞者を想定して、展覧会について考えた。そんな彼ら・彼女ら外側の視点から見ると、宗教にしろ、科学にしろ、芸術にしろ、何かに向き合ったり表現したり語り合ったりすることに一生懸命な人たちは、みんな「思い込みの激しい人」たちに見えてくるんじゃないか。思い込んだが最後(あるいは思い込んだときが始まり)、僕らは赤ん坊のように世界を見ることができなくなる。世界は、何かのように見えるようになった時点で、それ以外のようには見えなくなるのである。

そうやって開かれていったワタシの世界を他者と共有するためには、発信する側と受け取る側双方の考え方に「揺らぎ」を生じさせるようなユーモアと機知が必要なのではないか。この場面において「思い込んだら命懸け」、談志の「主観長屋」と繋がってくる。なぜって?

つまり、考え方や人間の性質において根本的なものが異なっていて噛み合わない者同士が仮にぶつかり合ったとしても、必死に相手を説き伏せようと対話する「主観長屋」の登場人物たちのようなユーモアと機知に富んだ寛容さが大事なんじゃないかということである。どんなに突拍子もないように感じられる状況でも、この地球上では同時に起こりうるのだということへの想像力が大事なんじゃないかということ。

「ヤングムスリムの窓」は、世代、信仰、文化、専門領域などが異なる、さまざまな人物が関わりながら進められている。その大きな特徴は、多様なアクターを結びつけていくために、映像メディアをハブのように活用しているところである。着地地点がどうなるかはさておき、映像で作品表現したり、映像を生かして新たな研究手法を考案したり、それから特に、意識しなければ交わることのないバックグラウンドの異なる人たちを結びつけるための映像の扱い方を模索したりと、このプロジェクトは映像を活かしたコミュニケーションの実験場になっている。

ほとんどすべてのメンバーが映像制作を前提として関わっており、撮影主体である本人を含めて、常に誰かをカメラで撮影していて、撮って撮られての関係にある。じゃあ、撮られているのは、たしかにワタシなんだけど、撮っているワタシはいったい誰だろう?

要するに言いたいのは、思想や価値観や信仰が異なる他者との交流には、ワタシの存在の自明性が揺らぐほどのアクロバティックさが必要なケースがある、ということである。宗教や文化が異なるだけでも、相手のことを理解するのはとても難しいが、それは相手から見たときにワタシという主観の理解が相手にとって難しいこととも通じているはず。

今回の展覧会のサブタイトル「撮られているのは、たしかにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?」とは、こうした状況をあらわす一文であり、このプロジェクトに関わるメンバーそれぞれの主観から立ち現れる関心や問いのズレのようなもののぶつかり合いから生じる「揺らぎ」こそが、他者との共存や多文化共生などと盛んに謳われる現代の状況へのひとつのテーゼとなるのではないだろうか。というのがマジメに考えた展覧会の意義みたいなものだが、こうやって書きながら「ぜんぜん笑えねぇな」とワタシの中に現れるアナタからのツッコミに恥入りながら座を辞さねばならないことに反省しきりである。まだまだ談志の「主観長屋」には遠く及ばない、というのが実情か。

ワタシが見てきたつもりのアナタが見るもの

野中 葉

慶應義塾大学 総合政策学部 准教授

私は、大学院生の頃から、現代のインドネシアにおけるイスラームの広がりに関心を持ち、当地に生きるムスリムのイスラーム受容やその実践を調査し、その成果を細々と書いてきました。調査を重ねる中で多くのムスリムと知り合いました。彼らの発言や、また生きざまに共感し、多くのことを学び、友達になって、食事をしたり、色々な話を聞いたりしてきました。私は研究者であり、彼らは私が調査する対象者ではあるけれど、様々な機会を通じて親しくなり、個人的なつながりを作っていくことで、研究者と研究の対象者という関係を少しでも乗り越えたいと思っていたように思います。一方で、日本を拠点に活動する研究者としての私にとって、彼らは客体として調査され、描かれる対象であり続けました。私は彼らにとっての外部者であり、彼らの生活や社会を俯瞰して観れる立場にあると、その特権性に後ろめたさを感じながらも、どこかでそう感じ続けてきたようにも思います。たまたま調査に協力的で、調査者である私にも好意的なインフォーマントに巡り合えてきたという事実に甘え、その特権性を享受してきたのかもしれません。

大学で教えるようになり、ゼミで日本におけるイスラームの理解やムスリムたちとの共生を学生たちと一緒に考えるようになりました。私が直接教える学生たちの中にも、また、ゼミに参加する学生の中にも、イスラーム教徒の家庭に育った学生や、人生の途中でムスリムに改宗した学生たちが混ざるようになっていきました。

これまで自分が研究対象としてきたムスリムたちではありましたが、こうなってくると、もはや研究者と研究対象者という関係ではありません。大学教員として、ムスリムの学生も非ムスリムの学生も指導し、ともに学びあう関係が築かれていくようになりました。

「ヤングムスリムの窓」には、様々な立場の人間がかかわり、いくつもの複合的な視点からイスラームやヤングムスリムの日常を描くことを目指しています。主人公は、私のゼミの現役学生である長谷川護くん、卒業生のエルトルール・ユヌスくん、またゼミの活動を通じて知り合ったヤングムスリムの一人アリアンくんであり、彼らが自らのフィルターを通じて、日本に暮らすムスリムとしての自分と、また自分を取り巻く環境との関係性を描いています。さらに彼らが自らを描く様子を、研究者である私や阿毛香絵さん、また映像作家の澤崎賢一さんや新明就太さんが自分たちのフィルターを通じて描く、という試みも行っています。ヤングムスリムのフィルターを通じて、彼らが何を描くのか、彼らのフィルターを通じて日本社会はいかに見えるのでしょうか。研究者としての私の眼には、彼らの作品がいかに映るのでしょうか。私自身はいったい何者なのか、自分の立ち位置や立場を十分に意識しながら、彼らの作品を楽しみたいと思います。


Loading...
Loading...