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Exhibition

Young Muslim’s Eyes

The one being taken a picture of is certainly me, but I wonder who is the one taking the picture?

What is Young Muslim's Eyes?

Young Muslim’s Eyes is a project planned jointly by cultural anthropologist Kae Amo (Associate Professor at Kyoto Seika University, specializing in modern society and Islam), artist/filmmaker Kenichi Sawazaki (Representative Director of the General Incorporated Association Living Montage), and Yo Nonaka (Associate Professor at Keio University, specializing in Islam and gender).

In Young Muslim’s Eyes, we will reveal how Japanese society appears through the perspective – or window – of young Muslims living in Japan, against the background of diversity and multicultural coexistence. The young Muslims here include second-generation individuals born and raised in Japan with parents from Islamic countries, as well as Japanese people who have converted to Islam, with various profiles. While practicing their religion, how do they build relationships with the people and society surrounding them in Japan?”

The characteristic of this project is not only to use visual media as a means of expression, but also to use it as a hub where actors with different positions, specialties, generations, and cultural backgrounds (young Muslims, video artists, researchers, etc.) interact with each other to conduct research/co-creation. In this exhibition “Young Muslim’s Eyes: The one being taken a picture of is certainly me, but I wonder who is the one taking the picture?”, we will showcase the potential of utilizing visual media in the interdisciplinary project process, as well as exhibit video works produced by each actor based on their respective interests.

展覧会の概要

Title: The one being taken a picture of is certainly me, but I wonder who is the one taking the picture?
Date: February 19th (Sun) – March 4th (Sat), 2023, from 12:00 to 19:00.
   Schedule for Talk Events
     February 19th (Sun) 17:30-19:00 Kaori Ageha x Kenichi Sawazaki x Ahmed Alian x Elturur Yonus x Mamoru Hasegawa
     February 26th (Sun) 15:00-16:30 Kaori Ageha x Yoh Nakano x Kenichi Sawazaki
     March 3rd (Fri) 17:00-18:30 Kaori Ageha x Kenichi Sawazaki x Usbi Sako (Director of CAACCS, Kyoto Seika University, Guest)
     March 4th (Sat) 15:00-16:30 Kaori Ageha x Kenichi Sawazaki x Junichiro Ishii (Artist, Guest)
Venue: Kyoto Seika University Satellite Space Demachi
Address: 2F, Keihan Demachiyanagi Building, 25-3 Tanaka Kamikyanagicho, Sakyo-ku, Kyoto-shi, Kyoto 606-8205
Admission Fee: Free
Participants: Young Muslim (Ahmed Alian, Elturur Yonus, Mamoru Hasegawa)
     Kenichi Sawazaki (Artist/Filmmaker, Representative Director of General Incorporated Association Living Montage, Part-time Lecturer at Kyoto City University of Arts)
     Kae Amo (Cultural Anthropologist, Special Lecturer at Kyoto Seika University)
     Shinmyo Shuta (Filmmaker, Part-time Lecturer at Tokyo University of the Arts)
     Yo Nonaka (Sociologist of Religion, Associate Professor at Keio University)
Organizers: Kenichi Sawazaki, Kaori Ageha
Curator: Kenichi Sawazaki
Installer: Kenichi Kobayashi
Sponsored by: General Incorporated Association Living Montage
Co-sponsored by: Young Muslim no Mado: Cross-Work of Art and Academia
       Kae Amo Laboratory, Kyoto Seika University
       Yo Nonaka Laboratory, Keio University
       Africa-Asia Contemporary Culture Research Center, Kyoto Seika University
       Seed Research Grant, Kyoto Seika University, “Religiousness in the Living Spaces of Contemporary Societies: A Comparative Research Project between Asia and Africa”
Supported by: Arts Aid KYOTO, Kyoto City, Kao Foundation for Arts and Science, Public Interest Incorporated Foundation

Video works

「#まなざしのかたち ヤングムスリムの窓:撮られているのは、確かにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?」

FHD, 29分30秒, 2023
監督・撮影・編集:澤崎 賢一
出演・撮影:アフメド・アリアン、エルトゥルール・ユヌス、長谷川 護、澤崎 賢一
撮影:新明 就太
カラーグレーディング:苅谷 昌江
コメンタリー:Habaco
制作協力:阿毛 香絵、野中 葉
制作:一般社団法人リビング・モンタージュ
©Kenichi Sawazaki

今回、”彼”がカメラを向けているのは、日本に生まれ育ったヤングムスリムたちだ。同じイスラームを信仰している彼らヤングムスリムではあるけれど、イスラームとの関わり方は、それぞれ少しずつ異なっているように見える。”彼”は、そんなヤングムスリムたちが、映像制作を通じて自分自身をみつめ、何らかのメッセージを社会に投げかけようとしているところを映像で記録している。

「湯けむりの中で」

FHD, 8分15秒, 2023
監督・出演・撮影・編集:長谷川 護
制作協力:澤崎 賢一、新明 就太、阿毛 香絵、野中 葉
©Mamoru Hasegawa

現在、世界人口の約4人に1人がムスリムと言われ、約20万人が日本に暮らしているとされる。ムスリムには、生まれながらのムスリムもいれば、人生の途中で改宗した者もいる。本作品の作者は、銭湯を営む家庭に生まれ、19歳でムスリムとして生きることを決意した。このドキュメンタリーは、自分がなぜ改宗したのかという問いに向き合うために、作者自身の半生を振り返った記録映像である。

「野中葉研究会ムスリム共生プロジェクト ~フードドライブ~」

FHD, 8分6秒, 2023
出演:宗教法人日本イスラーム文化センタ 事務局長 クレイシ・ハールーン、子ども食堂ぶどうの枝 代表 星野拓也、慶應義塾大学総合政策学部准教授 野中葉、慶應義塾大学SFC ムスリム共生プロジェクト所属学生
撮影/編集:是澤良太、長谷川 護
ナレーション:古澤友梨佳、是澤良太
協力:宗教法人日本イスラーム文化センター、子ども食堂ぶどうの枝
協力(映像制作):新明就太、澤崎賢一
製作:ヤングムスリムの窓:芸術と学問のクロスワーク
©慶應義塾大学SFC野中葉研究会ムスリム共生プロジェクト

「ヤングムスリムの窓」のメンバーである長谷川護が中心となって、自身が所属する野中葉研究会ムスリム共生プロジェクトのマスジド大塚にて行っているフードドライブについて紹介した動画です。ムスリム共生プロジェクトは、「異文化理解」を超えた共生の在り方を模索しながら、日本社会とイスラームをテーマに活動する研究会です。

「ムスリムミーム1」

FHD, 9分21秒, 2023
監督・出演・撮影・編集:エルトゥルール・ユヌス
制作協力:澤崎 賢一、新明 就太、阿毛 香絵、野中 葉
©Ertuğrul Yunus

「ムスリムミーム2」

FHD, 5分44秒, 2023
監督・出演・撮影・編集:エルトゥルール・ユヌス
制作協力:澤崎 賢一、新明 就太、阿毛 香絵、野中 葉
©Ertuğrul Yunus

「経済が愛を体現した時」

FHD, 4分22秒, 2023
監督・出演・撮影・編集:アフメド・アリアン
制作協力:澤崎 賢一、阿毛 香絵、野中 葉、新明 就太
©Ahmed Ahmed

「僕の顔が、僕のモノになった時」

FHD, 6分30秒, 2023
監督・出演・撮影・編集:アフメド・アリアン
制作協力:澤崎 賢一、新明 就太、阿毛 香絵、野中 葉
©Ahmed Ahmed

「交差(ノマド)する視点」

FHD, 13分00秒, 2023
監督・編集:阿毛 香絵
出演:阿毛 香絵、澤崎 賢一、野中 葉、長谷川 護、アフメド・アリアン、エルトゥルール・ユヌス
撮影:澤崎 賢一、 阿毛 香絵、バリー・ウマル
制作協力:澤崎 賢一、新明 就太、野中 葉、バリー・ウマル
©Kae Amo

« Les “autres” sont tes maîtres. Il faut accepter d’être un élève lorsque nous sommes sur le terrain. »
「『他者』はあなたの先生です。フィールドにいるときは、弟子であることを受け入れなければならない。」モーリス・ゴドリエ(フランスの人類学者)
映像作家、研究者の二人、日本に生まれ教育を受けた若いムスリム三人、異なるアイデンティティの間を行き来する、移動し交差する(ノマドする)視点。そこでの主人公はそれぞれ、生徒であり、教師であり、同時にテキストと映像の作者になる。この「ノマド」する視線は、固定した表現の場所を持たず、黙って観察しているあなたのもうひとつの視点を求め「浮遊」する。(阿毛香絵)

Archives


撮られているのは、たしかにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?

澤崎 賢一

アーティスト/映像作家
一般社団法人リビング・モンタージュ代表理事
京都市立芸術大学 非常勤講師

いきなり大きく脱線して恐縮だが、「粗忽長屋(そこつながや)」という古典落語がある。粗忽者=軽はずみでそそっかしい者が登場する落語である。ムスリムが登場する展覧会で、何でいきなり落語の話をし始めるのだとお怒りの方もいるかもしれない。書き始めている今のところは、あとでどうにかオチはつけたいと思っているので、しばし我慢してお付き合いいただけるとありがたい。まずは、ざっくりと「粗忽長屋」の内容を説明しよう。

八五郎は、浅草の観音様近くの行き倒れの死骸を、弟分の熊五郎だと思い込み、急いで引き取りにいくよう「当人」(熊五郎)に知らせにいく。八五郎は「浅草の観音様の近くで、おまえが行き倒れになっているから、はやく死骸を引き取ってこい」と言うが、熊五郎は「死んだ気がしない」と答える。しかし、「誰かほかのやつに持っていかれちまうぞ」と説得され、「当人」として現場におもむく。死骸を見ると、自分より少し顔が長い気がするものの、わが身と納得し、涙ながらに抱きあげる。その瞬間、ふと我に返り、「抱かれているのは、たしかにおれだが、抱いているおれはいったい誰だろう?」と熊五郎はこぼす。

お察しのように、このオチ、「抱かれているのは、たしかにおれだが、抱いているおれはいったい誰だろう?」は、今回の展覧会名「撮られているのは、たしかにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?」に引っ掛けてある。だから何だ?と糾弾するのは、もうしばしお待ちいただきたい。

立川談志(1935-2011)は、この「粗忽長屋」のことを「主観長屋」と呼んでいたことがある。どういうことか。談志は「粗忽長屋」に登場する八五郎と熊五郎はたんなるそそっかしい者ではなく、「思い込みの激しい」性格の持ち主だと言っているのである。「思い込んだら命懸け」で、八五郎と熊五郎は話し相手を説得しにかかる。あるときから、談志は「粗忽長屋」ではなく「主観長屋」という題でこの噺を高座にかけるようになった。

さて、ようやく「ヤングムスリムの窓」の話である。このプロジェクトに参加しているヤングムスリムとは、日本に生まれ育ったムスリム2世や途中で改宗した日本人の若者のことを指す。それから、主要なメンバーである文化人類学者の阿毛香絵さんはセネガルの若者たちとイスラーム神秘主義を調査していたし、同じくメンバーのインドネシアで地域研究を行う野中葉さんはムスリムファッションについて研究してきた。このように、この企画の関係者の多くは、イスラームについて造詣が深い。

けれども、この展覧会をご覧になっているあなたは、イスラームのことをどの程度ご存知だろうか。芸術作品の体を成す今回の展覧会の来場者の中には、一定数以上、イスラームとは無縁の方々がきっといるに違いない。なにを隠そう、このテキストを書いている僕自身、「ヤングムスリムの窓」に関わるまで、日本の暮らしの中でイスラームに触れる機会はほとんどなかった。

繰り返すが、展覧会に参加しているヤングムスリムたちはムスリムなんだけど、日本の文化の中で生まれ育ってきた。つい最近、日本に暮らす「ムスリムの墓が足りない」というニュースがあった。イスラームでは火葬が禁止されており必ず土葬でなければならないが、土葬の墓地が足りないのである。これに対して、「本土に埋めろ」なんていう心ない言葉が投げつけられているのをツイッターで見かけたが、彼らヤングムスリムにとっては、その「本土」が日本なのである。

このように、ひと時代前の日本の常識や倫理観では計りかねる、その多様な生き方が彼らヤングムスリムたちの特徴だからこそ、この展覧会では、ムスリムが同じムスリムに向けて何かを語りかけるだけではなく、これまでイスラームと無縁だった僕のような日本に暮らす人間にとっても、何かしら意味のあるものにしなくちゃいけない。ということが、展覧会を企画するにあたって僕の頭の中に強くあった。でもどうやって?

ムスリムにとって、アッラーは唯一無二、永遠の絶対者である。このムスリムにとっての真実を、ムスリム以外の人たちと共有することは、きっととても難しいだろう。そもそも絶対的な存在ってなに?僕自身よく分からない。このようにムスリムにとって自明なことが、その外側にいる他者にとってはそうではないと感じさせるケースは、おそらく他にもたくさんあるだろう。ヤングムスリムたちの活動を介して日本社会に暮らすムスリムたちの実情を明らかにすることに加えて、そういった他者同士の出会いの場を演出しようというのが、今回の展覧会の趣旨でもある。

だから今回、僕はイスラームとまったく無縁の日本人の鑑賞者を想定して、展覧会について考えた。そんな彼ら・彼女ら外側の視点から見ると、宗教にしろ、科学にしろ、芸術にしろ、何かに向き合ったり表現したり語り合ったりすることに一生懸命な人たちは、みんな「思い込みの激しい人」たちに見えてくるんじゃないか。思い込んだが最後(あるいは思い込んだときが始まり)、僕らは赤ん坊のように世界を見ることができなくなる。世界は、何かのように見えるようになった時点で、それ以外のようには見えなくなるのである。

そうやって開かれていったワタシの世界を他者と共有するためには、発信する側と受け取る側双方の考え方に「揺らぎ」を生じさせるようなユーモアと機知が必要なのではないか。この場面において「思い込んだら命懸け」、談志の「主観長屋」と繋がってくる。なぜって?

つまり、考え方や人間の性質において根本的なものが異なっていて噛み合わない者同士が仮にぶつかり合ったとしても、必死に相手を説き伏せようと対話する「主観長屋」の登場人物たちのようなユーモアと機知に富んだ寛容さが大事なんじゃないかということである。どんなに突拍子もないように感じられる状況でも、この地球上では同時に起こりうるのだということへの想像力が大事なんじゃないかということ。

「ヤングムスリムの窓」は、世代、信仰、文化、専門領域などが異なる、さまざまな人物が関わりながら進められている。その大きな特徴は、多様なアクターを結びつけていくために、映像メディアをハブのように活用しているところである。着地点がどうなるかはさておき、映像で作品表現したり、映像を生かして新たな研究手法を考案したり、それから特に、意識しなければ交わることのないバックグラウンドの異なる人たちを結びつけるための映像の扱い方を模索したりと、このプロジェクトは映像を活かしたコミュニケーションの実験場になっている。

ほとんどすべてのメンバーが映像制作を前提として関わっており、撮影主体である本人を含めて、常に誰かをカメラで撮影していて、撮って撮られての関係にある。(自分自身を含めた)対象を観察しつつ、他の対象から観察もされることで、ワタシという主観から見て、何となく当たり前のように感じられてきたことを改めて考え直してみる。

今回の展覧会のサブタイトル「撮られているのは、たしかにワタシだが、撮っているワタシはいったい誰だろう?」とは、こうした状況をあらわす一文であり、このプロジェクトに関わるメンバーそれぞれの主観から立ち現れる関心や問いのズレのようなもののぶつかり合いから生じる「揺らぎ」こそが、他者との共存や多文化共生などと盛んに謳われる現代の状況へのひとつのテーゼとなるのではないだろうか。

というのがマジメに考えた展覧会の意義みたいなものだが、こうやって書きながら「ぜんぜん笑えねぇな」とワタシの中に現れるアナタからのツッコミに恥入りながら座を辞さねばならないことに反省しきりである。まだまだ談志の「主観長屋」には遠く及ばない、というのが実情か。

■参考文献
立川談志(1999)『新釈落語咄(中公文庫)』中央公論新社
山本益博(2022)「山本益博の ずばり、この落語!お気に入りの落語、その二十三『粗忽長屋』──行き倒れを弟分の熊だと思い込み、その熊に知らせる粗忽な八五郎」https://lp.p.pia.jp/article/essay/989/235849/index.html
国山ハセン(2022)「父の死をきっかけに…「イスラム教徒の墓が足りない」 日本の“土葬”墓地の課題を考える」, https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/243845?display=1

ワタシが見てきたつもりのアナタが見るもの

野中 葉

慶應義塾大学 総合政策学部 准教授

私は、大学院生の頃から、現代のインドネシアにおけるイスラームの広がりに関心を持ち、当地に生きるムスリムのイスラーム受容やその実践を調査し、その成果を細々と書いてきました。調査を重ねる中で多くのムスリムと知り合いました。彼らの発言や、また生きざまに共感し、多くのことを学び、友達になって、食事をしたり、色々な話を聞いたりしてきました。私は研究者であり、彼らは私が調査する対象者ではあるけれど、様々な機会を通じて親しくなり、個人的なつながりを作っていくことで、研究者と研究の対象者という関係を少しでも乗り越えたいと思っていたように思います。一方で、日本を拠点に活動する研究者としての私にとって、彼らは客体として調査され、描かれる対象であり続けました。私は彼らにとっての外部者であり、彼らの生活や社会を俯瞰して観れる立場にあると、その特権性に後ろめたさを感じながらも、どこかでそう感じ続けてきたようにも思います。たまたま調査に協力的で、調査者である私にも好意的なインフォーマントに巡り合えてきたという事実に甘え、その特権性を享受してきたのかもしれません。

大学で教えるようになり、ゼミで日本におけるイスラームの理解やムスリムたちとの共生を学生たちと一緒に考えるようになりました。私が直接教える学生たちの中にも、また、ゼミに参加する学生の中にも、イスラーム教徒の家庭に育った学生や、人生の途中でムスリムに改宗した学生たちが混ざるようになっていきました。

これまで自分が研究対象としてきたムスリムたちではありましたが、こうなってくると、もはや研究者と研究対象者という関係ではありません。大学教員として、ムスリムの学生も非ムスリムの学生も指導し、ともに学びあう関係が築かれていくようになりました。

「ヤングムスリムの窓」には、様々な立場の人間がかかわり、いくつもの複合的な視点からイスラームやヤングムスリムの日常を描くことを目指しています。主人公は、私のゼミの現役学生である長谷川護くん、卒業生のエルトルール・ユヌスくん、またゼミの活動を通じて知り合ったヤングムスリムの一人アリアンくんであり、彼らが自らのフィルターを通じて、日本に暮らすムスリムとしての自分と、また自分を取り巻く環境との関係性を描いています。さらに彼らが自らを描く様子を、研究者である私や阿毛香絵さん、また映像作家の澤崎賢一さんや新明就太さんが自分たちのフィルターを通じて描く、という試みも行っています。ヤングムスリムのフィルターを通じて、彼らが何を描くのか、彼らのフィルターを通じて日本社会はいかに見えるのでしょうか。研究者としての私の眼には、彼らの作品がいかに映るのでしょうか。私自身はいったい何者なのか、自分の立ち位置や立場を十分に意識しながら、彼らの作品を楽しみたいと思います。

交差(ノマド)する視点

「サンパティックな記述」の向こう側

阿毛 香絵

京都精華大学国際文化学部 特任講師

「『他者』はあなたの先生です。フィールドにいるときは、弟子であることを受け入れなければならない。」モーリス・ゴドリエ(フランスの人類学者)

映像作家、研究者の二人、日本に生まれ教育を受けた若いムスリム三人、異なるアイデンティティの間を行き来する、移動し交差する(ノマドする)視点。そこでの主人公はそれぞれ、生徒であり、教師であり、同時にテキストと映像の作者になる。この「ノマド」する視線は、固定した表現の場所を持たず、黙って観察しているあなたのもうひとつの視点を求め「浮遊」する。

—

私は、もともと文化人類学、アフリカ研究を専門としてきました。自らセネガルに学生として留学しながらフィールドワークをしたあと、フランスで文化人類学を学びました。セネガルの若いムスリムたち、とくに大学生たちが、デジタルを使ったり現代的な社会の変化に対応しながら活動していく様子をエスノグラフィーの手法を用いて表現してきました。

15年あまりのセネガルやフランスでの生活を経て3年前日本に帰国したとき、かつての大学の先輩にあたる野中さんとの再会から、彼女の学生を中心とした日本の若いムスリムたちについて知るきっかけがあり、私がフィールドで出会ったセネガルの若いイスラーム教徒と彼らの姿がリンクしました。そのころ映像作家の澤崎さんともアフリカアジア現代文化研究センターを通して一緒に活動する機会があり、同じ日本社会を構成する新たな世代としてのムスリムたちと合同で映像制作をしたら面白いのではないか。

このふとした思いつきから、澤崎さん、野中さん、そして3人のヤングムスリム達、そして新明さん(今回の映像ではあまり写っておらずすみません!)というそれぞれ異なるバックグラウンドや視点を持った魅力的なひとたちが集まり、このプログラム『ヤングムスリムの窓』が生まれ、1年をかけて私たちと一緒に成長してきました。

以前私のエスノグラフィーを読んだセネガル人の研究者が「これはサンパティック(シンパシーのある)記述」だ、と言ってくれました。「研究対象」と私の関係は文章に滲みでる。彼らの言葉も、その目の前にいる私に対して発せられたものだから。このプログラムでは、映像を通してその「向こう側」が見たいと思っています。そこでは対象だったはずのヤングムスリムたちが製作者であり、観察者であり、何より一緒にプロジェクトを作っている仲間になる。その私たちの関係性の束そのものが、複数の映像という一つの作品になる。

野中さんとそのゼミというネットワークから集まってくれたそれぞれ個性豊かなヤングたち、クリエイターとして新しい表現を探求する澤崎さん、そして映像制作は素人ですが、いままで『他者』の視点をいかに乗り越えるか、どう描くかをテーマに人類学の研究を進めてきた私本人の様々な「視点」が交差しノマド(遊学)する。そういうイメージで今回の展示作品をつくっています。

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